科学と芸術の会社が、追い詰められて書いたソフト
After Effects は、Adobe が提供するモーショングラフィックス・映像合成ソフトウェアです。生まれた場所はシリコンバレーではなく、ロードアイランド州プロビデンスの小さなスタートアップ、CoSA(The Company of Science and Art)でした。1990年6月、ブラウン大学でつながった4人の卒業生が設立した会社です。
After Effects 1.0 が Macintosh 向けに出荷されたのは1993年1月。その半年後に CoSA は Aldus に買収され、1994年8月31日の Aldus と Adobe の合併で、Adobe の製品になりました。それから四半世紀後の2019年2月、After Effects の開発者5名はアカデミー科学技術賞を受け、映画芸術科学アカデミーは After Effects を「映画製作における卓越したモーショングラフィックスツール」と表彰文に記しています。受賞者には、CoSA 創業メンバーのデビッド・サイモンズ氏も含まれています。
民生のパソコンの上で、映画の道具の水準に達した
映画の視覚効果や合成は、専用のシステムで行う仕事でした。After Effects はそこを、誰でも買える普通のコンピュータの上で成立させています。アカデミー科学技術賞の表彰文が挙げたのは、まさにこの点です。「民生ハードウェアの上に、拡張性があり、効率的で、アーティスト本位のアプリケーションを実現した先駆性が、After Effects を映画製作における卓越したモーショングラフィックスツールにした」。
現場での位置は、開発を率いてきたデビッド・サイモンズ氏の言葉が示しています。「今や映画業界のモーショングラフィックスで断トツに一般的なツールで、望むものを何でも作れる」。実績は初版の年から始まっていました。1993年公開の『ジュラシック・パーク』では、プリビジュアライゼーション(事前の映像設計)に使われ、Adobe は「ジュラシック・パークのチームが必要とするものを提供できた唯一のアニメーション・合成アプリケーションだった」と記録しています。受賞スピーチによれば、After Effects は「600人年を超える労働の果実」です。
アーティストとプログラマを、隣に座らせる
社名の The Company of Science and Art——科学と芸術の会社——は、そのまま事業計画でした。CoSA の事業計画の前提は「アーティストとプログラマが並んで働き、マルチメディアコンテンツを作る」ことだったと、共同創業者のサイモンズ氏は書き残しています。作る人と使う人を分けない体制が、会社の設計に最初から入っていました。
その姿勢は、道具を作る動機の語り方にも現れています。アカデミー賞の受賞スピーチで、開発チームはこう述べました。「自分たちにはあれほど美しいものを作る才能はない。だから、他者がそれを作れるようにすることに大きな喜びを得ている」。開発の進め方についてもサイモンズ氏は、顧客の施設に入り込んで作業を直接観察する「顧客との緊密な協働」を挙げています。作れない自分たちが、作れる人のそばで道具を磨く。この距離の取り方が一貫しています。
1コマずつの手作業を、画面の上の設計に変える
After Effects の原型になったのは、共同創業者グレッグ・デオカンポ氏の手作業でした。Photoshop の「渦巻き」などのフィルタを1フレームずつ適用し、1枚ずつ保存してつないで、歪んでいくアニメーションを作る。動きのある映像表現は、そういう根気の仕事でした。
After Effects は、この仕事をレイヤーを重ねて時間軸の上で設計する形に変えました。エフェクトも合成も、コマごとの作業ではなくパソコンの画面の上の設定になります。のちにサイモンズ氏は「振り返れば、これはエフェクトを道具の一つに過ぎない合成アプリケーションだった」と書いています。1コマずつの手作業が要らなくなった先に、映像を層で組み立てるという作り方そのものが残りました。
会社を存続させる、最後のチャンスだった
CoSA は、映像ツールの会社として始まったのではありません。当初の構想は「5年で電子出版コングロマリットになる」というマルチメディアコンテンツ制作会社でした。資本は創業者の一人が出した3万ドルだけ。家賃は月1,000ドル、机は15ドル、椅子は10ドルの中古品です。「勝ち目が薄いことは分かっていたが、警告された『9割は失敗する』を、卒業したての4人の理想主義が押し切った」とサイモンズ氏は振り返っています。
最初の製品は、CD-ROM の電子雑誌『Connections』。広告は売れず、価格を0ドルに下げても関心を集められない、明確な失敗でした。ただ、CD-ROM のアニメーション再生が耐えがたく遅かったことが転機になります。その遅さを解決するために、再生ツール「PACo」を開発し、1991年5月に出荷しました。
そこへ1991年6月、Apple が QuickTime を発表します。動画再生が OS の機能になれば、PACo の市場は消えます。「蒸気ローラーの前を走る蟻にはなりたくなかった」と創業者たちは撤退を決めました。2つの製品を失った会社に残された道について、受賞スピーチは端的です。「After Effects は、会社を存続させる最後のチャンスだった」。
MTVを観て、ダーツで専門家を探した
作るものの種は、社内にありました。デオカンポ氏が Photoshop のフィルタを1コマずつ適用して作っていた歪みアニメーションです。エフェクトの想像力の源泉として、チームは何時間もケーブルテレビの MTV を観ました。ただし、エフェクト市場のことは何も知りません。そこで MacWeek 誌の記事に載っていた専門家の名前からダーツで選んで電話をかけ、放送デザイン界の第一人者ハリー・マークス氏から助言を得ています。
開発は一度つまずきます。1992年4月に始まった計画「Lort」は、あらゆる時間ベースのメディアを処理するという壮大すぎる設計で、2か月で骨組みから捨てられました。名前は近所のカンボジア・ベトナム料理店のメニューから取っており、メニューの次の品「Egg Roll」にちなんで、縮小した新計画は「Egg」になります。
製品名の決定にも小さな事件がありました。社内投票の1位は「Effectstacy」。しかし薬物を連想させるとして30歳の社長ビル・オファレル氏が拒否し、議論の末に「After Effects」に決まります。この命名騒動の名残で、OS 上の4文字識別子はいまも「FXTC」です。
1993年1月、After Effects 1.0 が出荷されます。完成が宣言されたのは、展示会 MacWorld SF へ出発する前日。最初の数十箱は、オフィスの玄関で手作業で組み立てられました。初版にはタイムラインウィンドウがなく、エフェクトは1レイヤーに1つ、モーションブラーもベジェのマスクもありません。それでも売れ行きは良好でした。デモを見てその場でベータテスターを買って出たクリス&トリッシュ・マイヤー夫妻は、のちに After Effects の定番教科書の著者になっています。
2度の買収を越えて、同じ土台の上に積んだ
会社は素早く飲み込まれていきます。発売から半年後の1993年7月、社員15人の CoSA は Aldus に買収されました。「コントロールを手放すのは怖く、安定した給料は安心だった」とサイモンズ氏は書いています。翌1994年8月31日には、その Aldus が Adobe と合併し、After Effects は Adobe の製品になりました。この年、10人の CoSA メンバーがプロビデンスからシアトルへ移り、開発は場所を変えて続きます。
道具としての節目は、動く場所と規模の拡大です。1997年5月のバージョン3.1で Windows 版が出て、2013年6月には Creative Cloud への移行版となる After Effects CC(バージョン12.0)が出荷されました。開発体制も、4人の会社の兼業から、シアトルの20人超の専任チームへと育っています。
そして2019年2月、サイモンズ氏を含む開発者5名が、アカデミー科学技術賞を受賞しました。オフィスの玄関で箱を組み立ててから26年後、映画の表彰の舞台に、After Effects の名前が上がっています。
撤退が見つけた場所と、最初に選んだ土台
なぜ After Effects はモーショングラフィックスの定番になれたのかを、考えていきます。
第一に、最初に選んだ設計が、30年積み上げられる土台だったことです。サイモンズ氏は「振り返れば、Egg はエフェクトを道具の一つに過ぎない合成アプリケーションだった。最初に選んだレイヤーアーキテクチャが、合成アプリケーションを築く偉大な基盤だったのは幸運だった」と書いています。タイムラインすらなかった初版から現在まで、機能はこの層の構造の上に積まれてきました。「600人年を超える労働」を受け止められる器が、最初の版にあったことになります。
第二に、専用システムの外——民生のパソコンの上に、プロの道具を置いたことです。アカデミーの表彰文は、受賞理由の先頭に「民生ハードウェアの先駆的な利用」を挙げました。専用機材を買えない制作者にも手が届き、それでいて『ジュラシック・パーク』の制作チームの要求に応えられる唯一の選択肢でもある。安い側と高い側の両方から選ばれる位置です。
第三に、作り手が使い手のそばにいたことです。アーティストとプログラマを並べる体制は創業時の事業計画そのものであり、市場を知らなければダーツででも専門家を探して聞き、顧客の施設に入り込んで作業を観察する。「自分たちにはあれほど美しいものを作る才能はない。だから、他者がそれを作れるようにすることに大きな喜びを得ている」という言葉の通り、道具は使い手の側から作られ続けました。
CD-ROM 雑誌の失敗と QuickTime による撤退が、結果としてこの場所にチームを立たせました。月1,000ドルの家賃と中古の机から始まった会社の、会社を存続させる最後のチャンスとして書かれたソフトは、いまも映画業界のモーショングラフィックスで最も一般的な道具であり続けています。